スーツケースの蓋が閉まらないまま、床に座り込んで考え込む ― という時間が、渡航前の私にもありました。服を1枚入れては別の1枚を出し、参考書を積んでは崩す。3時間かけて減ったのは2キロで、そのあいだ何を判断していたのかというと、ほとんど何も判断していませんでした。
荷造りが終わらないのは、荷物が多いからではありません。1つ1つの物について、その場で毎回ゼロから考えているからです。そして実際に住み始めてみると、あれだけ悩んで詰めた物の半分は現地の店で普通に売っていて、逆に「まさか無いと思わなかった」ものが手に入らずに困る。この記事では、私が渡航のときに使った物ではなく判断の側を先に決めてしまう手順をまとめます。持ち物リストは最後に載せますが、本題はその手前にあります。
🗂 目次
荷造りで減らすべきなのは、重さより「判断の回数」
預け入れの重量制限は、たいてい1個23キロ前後です。数字がはっきりしているので、つい「23キロにどう収めるか」というパズルとして考えてしまいます。けれど渡航前の荷造りが終わらない本当の理由は重量ではなく、手に取った物のすべてが「持っていくか / 置いていくか」の二択で目の前に現れることにあります。物が200個あれば200回の判断が発生し、しかも1回ごとに「向こうで買えるだろうか」「買えるとしていくらだろうか」「無かったときにどれくらい困るだろうか」を同時に考えることになる。これは疲れます。疲れた頭で下した判断は、だいたい「とりあえず入れておく」に倒れます。
だから最初にやるのは、物を減らすことではなく判断の型を決めることです。型さえ決まっていれば、あとは物を型に流し込む単純作業になります。私が使ったのは「4つの箱」という分け方で、物ごとに考えるのをやめて、その物がどの箱に入るかだけを判定するようにしました。判定の基準は、次の2つの質問だけです。
- 質問1:現地で手に入るか。手に入るなら、原則として持っていかない
- 質問2:着いた初日から必要か。初日から要るなら、たとえ現地で買えても最小限だけ持つ
この2問だけで、荷物の8割は行き先が決まります。残る2割 ―「現地で手に入るかどうかが自分では判断できないもの」だけを、あとで個別に調べればいい。3時間かかっていた荷造りが半日で終わったのは、この2割を先に切り出したからでした。

全部を4つの箱に振り分ける
先ほどの2問を組み合わせると、荷物は次の4つに分かれます。実際の作業では、部屋の床に4つの区画を作って物理的に置いていくのがいちばん早いです。頭の中で分類しようとすると、また1個ずつ考え始めてしまうので。
| 箱 | 中身の性格 | 扱い | 例 |
|---|---|---|---|
| A:替えがきかない | 現地で買えない、または探すのに何週間もかかる | 最優先で入れる。重さを理由に削らない | 書類の原本、常備薬、度入りの眼鏡・コンタクト、日本語の参考書、自分の身体に合った靴 |
| B:現地のほうが早い | 現地の店で普通に売っていて、値段も大きく変わらない | 持っていかない。着いてから買う | 洗剤・シャンプー類、タオル、寝具、食器、ハンガー、文房具の大半 |
| C:最初の数日をつなぐ | 現地で買えるが、買いに行くまでの空白を埋める必要がある | 数日分だけ持つ。まとめ買いはしない | 洗面用具の小サイズ、着替え数日分、簡単な食料、常温で日持ちするもの |
| D:重さに見合わない | あると嬉しいが、無くても生活は回る | 置いていく。後から送るか、帰省時に持ち帰る | 大量の服、かさばる調理器具、読むか分からない本、思い出の品の大半 |
この表で迷いが出るのはBとCの境目です。判定に使えるのは「買いに行けるようになるまで何日かかるか」という一点だけ。到着した週は、住居の鍵の受け取りや役所の予約で予定が埋まります。土日を挟むと店が早く閉まる地域も多く、「明日ちょっと買ってくる」がそのまま4日後になることが普通に起きます。到着後の数週間に何が待っているかは入学後 最初の3ヶ月の記事に時系列で書いたので、そちらと突き合わせながら「空白の日数」を見積もると精度が上がります。
Dの箱については、ひとつだけ補足を。捨てる必要はありません。実家に置いておいて、次に帰るときに少しずつ運べばいい。「今持っていくか、二度と手にしないか」という極端な二択にしてしまうと、行き先を決めきれなかったものが全部Aに流れ込みます。「次の帰省で運ぶ」という第三の選択肢を最初に用意しておくのが、Dを機能させるコツです。
電気まわりだけは、着いてから気づくと詰む
4つの箱の外側に、例外がひとつあります。電気製品です。これは「買えるか / 買えないか」ではなく「持っていっても動かない可能性がある」という別の軸で判断する必要があります。
日本の家庭用電源は100Vですが、ヨーロッパ大陸の多くの国は230V前後で、しかもコンセントの形も違います。私が住んでいる地域も丸ピン2本のタイプで、日本の平型プラグはそのままでは挿さりません。つまり必要なものは2種類あって、混同すると危険です。
- 変換プラグ ― 形を合わせるだけの部品。電圧は変えない
- 変圧器 ― 電圧そのものを下げる装置。重く、対応できる消費電力に上限がある

ここで効いてくるのが、機器側の対応電圧です。ACアダプターや本体に「INPUT: 100-240V」と書かれていれば、その機器は世界中の電圧に自分で対応できるので、変換プラグだけで足ります。ノートPC、スマートフォンの充電器、電動歯ブラシの充電台などはたいていこの表示です。手元の機器を1つずつひっくり返して、この表示を確認するところから始めてください。
問題は「100V」としか書かれていない機器です。ドライヤー、ヘアアイロン、電気ケトル、炊飯器 ―熱を出す機器はほぼ全部こちらです。230Vにそのまま挿すと壊れますし、発熱・発火の危険もあります。変圧器を使えば理屈のうえでは動きますが、消費電力の大きい機器に耐える変圧器は数キロあり、そこまでして持っていく価値はまずありません。熱を出す家電は現地で買うと決めてしまったほうが、荷物も安全も同時に片づきます。
逆に、忘れると地味に困るのが電源タップです。変換プラグを1個しか持っていかないと、その1個を充電のたびに差し替えることになります。日本の電源タップを1本持っていって、そこに変換プラグ1個を噛ませれば、日本仕様の口が一気に増えます。これは持っていって正解だったものの筆頭でした。ただしタップ自体の対応電圧の表示は必ず確認してください。
書類は「原本をどこに置くか」まで決めて初めて片づく
書類の準備そのもの ― どの証明書を取り、どこで認証を受け、誰に翻訳させるか ― については入学前に片づける書類仕事の記事に順番を書きました。ここで扱うのはその次の段階、揃った紙をどう運ぶかです。

原則は3つあります。
- 原本は預け入れ荷物に入れない。手荷物から出さない。荷物は遅れて届くことがある
- 紙のコピーと、クラウド上のスキャンの両方を持つ。片方だけでは足りない場面がある
- 原本・コピー・スキャンを同じ場所に集めない。分散させることが保険になる
2つめの「両方」が地味に効きます。役所や大学の窓口では紙のコピーを求められることが多く、スマートフォンの画面を見せて済む場面は思ったより少ない。一方で、家に帰ってからオンラインのフォームに番号を打ち込むときは、スキャンがクラウドにあるほうが圧倒的に早い。用途が違うので、どちらも要ります。
そして、着いてからの置き場所を出発前に決めておくこと。私は「クリアファイル1冊に原本を全部まとめ、机の同じ引き出しにしか入れない」と決めました。手続きが重なる時期は、同じ書類を何度も出し入れします。そのたびに置き場所が変わると、必要な日に限って見つからない。住居がまだ決まっていない段階の人は、住まい探しの記事で鍵のかかる収納があるかどうかも一緒に確認しておくと安心です。
クラウド側の扱いには少しだけ注意が必要です。身分証や在留に関わる書類のスキャンは、そのまま本人確認に使える情報の塊です。共有リンクを作ったまま放置しない、公共のネットワークからは開かないといった基本はネット環境とセキュリティの記事のとおりに扱ってください。
常備薬と身体まわり ― 同じものは無い前提で選ぶ
市販薬は、どの国にも売っています。ただし「いつも使っているのと同じもの」は、まず売っていません。成分が同じでも配合や規格が違い、名前も当然違う。体調を崩している最中に、慣れない言語の棚の前で成分表を読み比べるのは相当につらい作業です。だから常備薬は箱Aに入ります。ここは重さを理由に削らないでください。
処方薬がある人は、扱いがもう一段階変わります。国によっては持ち込みの数量に制限があったり、英文の証明書(処方内容や必要性を医師が記した書面)を求められたりします。これは薬の種類と渡航先によって決まるので、一般論では判断できません。処方元の医師に相談したうえで、渡航先の大使館・領事館や公的機関が出している最新の案内を必ず自分で確認してください。出発直前ではなく、書類仕事と同じ時期に始めるのが安全です。
身体まわりでもうひとつ、替えがきかないのが視力の補正具です。眼鏡もコンタクトも現地で買えますが、処方を出してもらうところからやり直しになり、時間もかかれば説明もいる。私は「今使っているもの+予備1つ、それと最新の度数の控え」という形にしました。度数さえ手元にあれば、最悪の場合も現地で説明ができます。
靴も、意外に箱Aです。サイズ表記が違ううえに足の形の想定も違うので、「歩き慣れた靴が1足ある」という状態は、着いた直後の数週間の生活の質をかなり左右します。毎日それなりの距離を歩くことになるので、ここは妥協しないほうがいいと思います。
勉強道具は「最初のひと月で使うもの」だけ
いちばん重くなりがちで、いちばん判断を誤りやすいのが本です。「向こうでは日本語の本が手に入らないから」という理由は正しいのですが、その理由を全部の本に適用すると、スーツケースが本だけで埋まります。
私が使った基準は、「入学して最初のひと月の授業で、実際に開くか」でした。医学部の1年目に最初に来るのは解剖学・生化学・組織学あたりで、そこで手が届く場所に置いておきたい本は、実は数えるほどしかない。2年目以降に使う本は、そのとき帰省するなり送るなりすればいい ―というより、そのころには「本当に必要な本」の顔ぶれが変わっています。
電子版で足りるものは電子版にする、というのも当然効きます。ただし全部を電子にはしませんでした。図版の大きいアトラスのように、紙で開いたほうが速い本は確実に存在するからです。「紙で残すのは、机に広げて他の資料と並べる本だけ」と決めると線が引きやすくなります。
現地語の教材については、出発前に買い込む必要はありません。現地で売っているものは現地の学習者向けにできていて質も高いですし、そもそもどこまで現地の言葉を学ぶかの線引きは、着いて生活を始めてからでないと決められない部分があります。
到着後72時間を、機内持ち込みだけで越えられるか
最後に、荷造りの仕上げとして必ずやってほしいことがあります。預け入れの荷物が届かなかったと仮定して、手荷物だけで最初の3日間を過ごせるかを確認することです。

荷物の遅延は珍しいことではありません。乗り継ぎがあれば確率はさらに上がります。そして到着直後の3日間は、住居の入居手続きや大学のオリエンテーションなど、予定の入れ替えがきかない用事が集中している時期でもあります。この時期に「荷物が届かない」と「何も手元にない」が重なると、単なる不便では済まなくなります。
手荷物に入れておくのは、次のものです。
- 書類の原本一式(これは絶対)
- 常備薬と、処方薬があれば数日分
- 眼鏡・コンタクトの予備
- PCと充電器、変換プラグを1つ
- 着替え1〜2日分と、最低限の洗面用具
- 現金を少額(カードが使えない窓口が残っている場面がある)
逆に言えば、これ以外は全部預けてよいということでもあります。「無くなったら困るもの」を手荷物に集めていくと、判断が要るのはこの6項目だけになり、残りは重さの都合だけで機械的に振り分けられます。荷造りの最後の1時間が短くなるのは、この順番で考えたときです。
正解だったもの、要らなかったもの
最後に、実際に住んでみてからの答え合わせを表にしておきます。地域や住居の条件で変わる部分はありますが、判断の感覚をつかむ材料にはなるはずです。
| 持っていって正解だったもの | なぜ |
|---|---|
| 電源タップ1本 | 変換プラグ1個で日本仕様の口が一気に増える。買い足しの手間が消える |
| 常備薬と、飲み慣れた市販薬 | 体調が悪い日に、知らない棚の前で成分表を読まずに済む |
| 歩き慣れた靴 | サイズと足の形の想定が違う。最初の数週間は歩く距離が長い |
| 日本語の参考書(最小限) | 同じ内容でも、母語で読める速さは他で埋め合わせられない |
| 書類のコピー(紙) | 窓口では画面ではなく紙を求められる場面がまだ多い |
| 爪切り・耳かきなど小物 | 現地にもあるが形が違う。安く、軽く、探す時間が省ける |
| 要らなかったもの | なぜ |
|---|---|
| 大量の服 | 着る枚数は結局限られる。現地の気候に合う服は現地で買うほうが正しい |
| 日本の1年分の日用品 | 洗剤もタオルも普通に売っている。1年分を運ぶ意味がない |
| 熱を出す家電 | 電圧が違い、変圧器も重い。現地で買うほうが安全で安い |
| 「読むかもしれない」本 | 1年経っても開かなかった。読む本は必要になってから決まる |
| 大量の食料品 | 重い。調味料をいくつか持つ程度で十分だった |
この2つの表を見比べると、境目が見えてきます。正解だった側は「軽くて、替えがきかない」もの。要らなかった側は「重くて、現地に同等品がある」もの。結局のところ、荷造りで見るべきなのは物の値段でも思い入れでもなく、この2軸だけだった、というのが今の実感です。
出発前の最終チェック
🧠 詰め終わったあとに、5つだけ確認する
Q1. 預け入れが届かなくても、最初の3日を越えられますか?
書類の原本・常備薬・眼鏡の予備・PCと充電器・着替え1〜2日分。この5つが手荷物に入っていれば、遅延が起きても予定は止まりません。逆にこれが預け入れに入っているなら、今すぐ移してください。
Q2. 持っていく電気製品すべての電圧表示を、自分の目で確認しましたか?
「INPUT 100-240V」なら変換プラグだけでよく、「100V」だけなら原則として置いていきます。特にドライヤー・ヘアアイロン・電気ケトルは、記憶ではなく現物の表示で判断してください。変圧器を買う前に「そもそも現地で買えばよいのでは」を一度検討する価値があります。
Q3. 書類は、原本・紙のコピー・クラウドのスキャンの3つが揃っていますか?
窓口では紙、オンライン申請ではスキャンと、使う場面が分かれます。3つを別々の場所に持つことがそのまま保険になります。クラウドの共有リンクを開いたままにしていないかも、この機会に確認を。
Q4. 処方薬がある場合、持ち込みの条件を公的な情報で確認しましたか?
数量の制限や、英文の証明書が必要かどうかは、薬と渡航先によって変わります。ブログや体験談ではなく、処方元の医師と、渡航先の公的機関の最新の案内で確認してください。書類仕事と同じ時期に始めれば、出発直前に慌てずに済みます。
Q5. 「置いていく」と決めたものに、次の帰省で運ぶ予定を付けましたか?
捨てるのではなく預けておく、と決めた瞬間に判断が軽くなります。実家の箱ひとつにまとめて、中身をメモに残しておくだけで十分です。この第三の選択肢がないと、迷ったものが全部スーツケースに戻ってきます。
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おわりに
- 荷造りが終わらないのは量のせいではなく、物ごとに毎回ゼロから考えているから
- 「現地で買えるか」「初日から要るか」の2問で、4つの箱に振り分ける
- 電気製品だけは別枠。表示が100-240Vかどうかで扱いが変わり、熱を出す家電は現地で買う
- 書類は原本・紙のコピー・スキャンの3点セットにし、着いてからの置き場所まで先に決める
- 常備薬・視力の補正具・歩き慣れた靴は、軽くて替えがきかないので優先度が高い
- 最後に、預け入れが届かない前提で手荷物を組み直す
渡航前は、荷造りが唯一「自分の手で進められる作業」に見えるので、つい時間をかけすぎてしまいます。けれど実際に生活を始めてみると、スーツケースの中身の出来不出来が効いてくるのは最初の2週間くらいで、そのあとは現地で買い足したもののほうが日常を作っていきます。そう考えると、荷造りの目的は「完璧な装備で乗り込むこと」ではなく、最初の2週間を、余計なことで足を止めずに越えることだとわかります。そこさえ越えれば、あとは住みながら整えていけます。
私自身、持っていって使わなかったものはたくさんありますし、現地で買い直したものも少なくありません。それで困ったことは特にありませんでした。困ったのは、替えがきかないものを置いてきたときだけです。判断に迷ったら、値段でも重さでもなく「これは現地でもう一度手に入るか」だけを見てください。そこだけ間違えなければ、あとは十分に取り返しがつきます。
本記事は個人の経験と、その時点で確認した一般的な情報にもとづく記録です。薬の持ち込みの可否・数量・必要書類は、薬の種類と渡航先によって異なります。服用中の薬がある場合は必ず処方元の医師に相談し、渡航先の公的機関が出す最新の案内を確認してください。また電気製品の使用は、機器本体の表示と現地の規格に従ってください。電圧や規格の判断を誤ると故障・発熱・火災の原因になります。手続きや制度の要件は変更されることがあるため、最終的な確認は各機関の一次情報で行ってください。


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